へやの片づけしてたら出てきた荒井献『イエスとその時代』(岩波新書、1974)asin:4004121582を10年ぶりくらいに読んでいる。
おもしい。


エスが神殿の境内から、そこで商売をしている人々を追い払い、「あなたがたは
神殿を「強盗の巣」(エレミア7:11)にしてしまった」と言い切ったとすれば、
これは明らかに商売人の背後にあって民衆を搾取している神殿勢力そのものを
的とした強烈な批判行動として評価されなければならないであろう。
いずれにしても、このようなイエスの行動は、一方においてゼーロータイ的志向
を有する人々にはメシア的行為として[……]受けとられたに相違ない。
[……]現代の若干の歴史家たちも、これをなにがしかメシア的革命運動の一環として
位置づけようと試みている。しかし、このような位置づけを、私どもは採らない。
[……]しかし他方において、イエスを政治的革命家に仕立て上げるよりもっと正しくないのは、
エスの行動に必然的・不可避的に伴わざるをえない政治的局面を全く無視して、
彼を、政治とは関わりのない宗教的次元に押し込み、人間に「魂の悔改め」あるいは「内面の自由」
を迫ったいわゆる「宗教家」として理解しようとする試みである。
当時イエスが、民衆、とりわけ政治的=宗教的に、すなわち社会的に差別の対象とされていた民衆
と共に立ったということは、既にそれだけで、彼の行動が宗教的=政治的であったのである。
さらに彼がエルサレムにおいて、律法の政治的経済的「物質化」とも言える神殿を攻撃せざるをえなくなった時、
通常は与野党として対立していた祭司長たちと律法学者たちとが結束して彼の殺害を計ったとすれば、
これをどうして宗教的次元においてのみ説明することができるというのであろうか。


(pp.163-165)